コレクションの披歴ではありません。
知識自慢や腕自慢、それに付随してのマウンティングでもありません。

自らの「遊び」を通じて玩具との付き合い方、そのかたちを提案していく試みです。
少なくとも僕は、「そういうもの」として拙シリーズ『宙マン』と向き合い続けてきましたし
2006年のシリーズ開始時から、その思いは今に至るまで変わりません。

数を揃える、並べて飾る、眺めて愛でる、投機の対象……
それらも確かに、玩具と向き合う上での一つのスタンスでしょう、
でも玩具と付き合うって、本当にそれ「だけ」でしょうか。

思い出してみて下さい。
幼いころ、胸いっぱいのワクワクやときめきとともに、買ってもらえた
玩具を開封し、手にとったとき……
それは既に、おもちゃであっておもちゃではなかったはずです、
掌の中にあるのはまさに「本物」、TVや映画、ゲームで「阿蘇にの滑脱たる躍動ぶりや
あなた自身の想像力を載せて飛翔する「夢の依り代」だったはずです。

男児向け玩具も、女児向け玩具も、マニアやハイエンド・ユーザー向けの
高額&精密なトイもフック売りのチープトイも、すべて一切の区別も優劣もなく
平等に肩を並べて一堂に会し、「遊び」の中でそれぞれの役を演じてもらうことによって
その中で自然に発生してくる物語性と、織りなされてくる「遊び」独自の世界観。

そんな「ごっこ遊び」の最もプリミティヴな楽しさに対して
より自覚的になり、より積極的にその根源的な魅力へと肉薄していこうとする
確たる意思を持つとき、その想いの具現化たるフォトストーリーと言う
表現形式をとることで(僭越ながら)「宙マン派宣言」と名乗らせて頂く次第です、

無論、そういった楽しみ方に際しましては、横山宏氏の『Ma.k』や
安居智博氏の『カミロボ』という優れた先達があり、それらの楽しさは
僕も現在進行形で刺激を受け、勉強させてもらっているわけなんですが……
それらの先達に触れるたびに改めて感じるのが、その技術は発想力などの
確かな土台となっている「枠にとらわれない自由な魂」そのものです。

「〇〇(アイテム名)を持っていないから遊べない」
「××の同一規格、同一メーカーの同一レーベルじゃないなら意味がない」
こと遊びに関して言うなれば、これら全て「遊び心の堕落」です。
子ども心に対する「裏切り者」である、とさえ断じましょう。
特定のアイテムが手元になかったとしても、それを絶対のデメリットではなく
自分なりの遊びの工夫が入り込むための余地である、と捉えたその瞬間からもう
ユーザー一人一人の「遊び」に対する独自性の芽が吹き始めている証。
だからこそ、せっかく芽吹いた「遊び」を根腐れさせず、大切に育てるために
どんな一手を打っていくべきなのかを常に楽しみながら考えていくと言うのが
拙ブログ、および「宙マン派」の在り方だと思っています。

とは言え拙ブログと『宙マン』のやり方だけが、現行のシーンにおける絶対の正解でないのは
改めて申し上げるまでもないことで……ほら、例えばうどんの腰。
四国・さぬきうどんのごっつい腰にも、鍋焼きうどんの柔和な腰にも、どちらにも等しく
価値があって旨いものだ、と言えばお分かり頂けますよね?
組み立てたり、愛でたり、眺めたり、戦わせたり……エトセトラ、エトセトラ。
そういった「自分のフィーリングに一番合っている遊び方」でそれぞれが主張しつつ
それら異なる方々との交流の中で様々な「気づき」を得て自分の遊びにフィードバックしたり
お互いの違いを理解したうえで各々のスタンスを認めあい、リスペクトしていけるなら
それこそが真に素敵なことなんじゃないかな、と思うのです。

オトナになっても、いい年こいても……
大好きなおもちゃといつまでも仲良くして、大いに戯れましょう。
そんな時、我が国の誇るキャラクタービジネスの決勝たる玩具軍は
日々の日常で時にささくれだった心を優しくなだめ、また時に想像の翼を
無限大に広げて強張った発想を溶きほぐし、無限の空へ解き放ってくれる
素晴らしい夢先案内の役割を果たしてくれるに違いないからです。

あらためて今、このタイミングでの「宙マン派宣言」。
それをひとつの思想として掲げることは、すなわち無邪気とヤンチャに
裏打ちされた「遊びごころ」の側に拠って立ち、かつ各々の歩幅と
裁量においてそれを実現していく、と言うその酢ランスを明確化する
ひとつの意思表明に他ならないのです。

……な~んてことを突然言い出したのも、ひとえに昨年下旬の大きな病気と
入院生活によってもたらされた心境の変化と気の迷い(苦笑)。
たはは、お恥ずかしったらありゃしない(赤面)。






